第97回
(話題) 「境内」からみた三都−三都の比較都市史序説−
(要旨)
日本の都市には近世の城下町に起源をもつものが多く、また中世に溯るもの、奈良や京都のように千年をはるかに超えて生き続けている都市もあるが、都市史を通観すると、古代都市=都城(中国を範とした条坊制による整然とした都市形態)、近世都市=城下町(城郭を中心とした身分制に基づくゾーニング)というように空間的に明快な構成をもち、それでおおむね説明がつく。しかし、中世にはそれに相当する明快な都市類型が見当たらない。中世の都市像は、前半は律令制の崩壊の中で都城が瓦解(がかい)・変容して市や宿が生まれだし、後半は港町・門前町・寺内町や戦国城下町などが形成され都市化の動きが本格化していくという、古代から近世への長い移行期という理解の中で形作られてきた。そしてこれらの多様な中世都市の形成が近世都市の重要な前提となっているのである。
大坂・京都・江戸のいわゆる三都は、近世中期以降他の地方都市と比較して卓越した巨大都市への道を歩むが、いずれも城下町であり、町人地・武家地・寺社地という異質な都市的要素を共有しており、位相的にはほぼ同型といえる。そこで、中世都市の空間類型のキーワードとして「境内」と「町」を取り上げ、都市の遺伝子(細胞)の視点から三都の比較を試みる。前者は権門・領主の拠点や寺社聖域を核とした地域形成、後者は道路を基軸とした地域形成であり、中世の資料にそれぞれ「境内」「町」という言葉が用いられているが、その空間的特質は、「境内」が1.中核が存在する(領主/象徴核)2.核を中心とした同心円状の面集合3.重層的構造4.閉鎖系の集合−結界と囲繞(いにょう)5.一円性とその論理6.定着性7.屋敷型の住居、に対し、「町」は1.原則的に核をもたない2.道を基軸とした線形集合3.均等な単位の連続4.開放系の集合5.境界性と両義的(境内側からは従属、町側からは自律)存在6.流動性7.町家型の住居、と対比できよう。寺院境内を対象とした場合、境内と町の関係の空間的モデルとしては、境内の周縁に町が付属する形、門前に町が付属する形、境内と町が地理的に離れているが何らかの関係を持つ形、境内に従属するのでなく逆に町が蚕食していく形、が挙げられる。
1.大坂の境内…嘉暦2(1327)年の萱津宿(かたづじゅく)(「尾張国富田荘絵図」の一部、円覚寺蔵)の絵図には、道に沿って円聖寺・千手堂・光明寺・大師堂と、広大な田畑を間に置き4つのブロックが描かれており、ブロックはいずれも空白(菜園?墓地?)・寺院と境内に建つ在家・道を挟んで一群の在家の3層から構成され(光明寺だけが2棟の仏堂のみで境内は空地)ているのが読み取れる。街道沿いにブロックが連続することによって「宿」が形成され、ブロックを境内的なまとまりとみれば、門前の在家がつながって「町」が成立していると読める。
大坂市中・周辺に立地する寺院は、「寺町」型(寺町を形成する寺院)、「町寺」型(市中に散在する寺院)、「境内」型(子院・門前地区を付属させる寺院)の3類型に分けられるが、大坂の特徴はそのうちの「町寺」型=一向宗寺院の散在分布にある。“大坂濫觴書(らんしょうがき)一件”や“町触れ”から、一向宗寺院は町家並みの役を負担し、境内を構成しないことを条件に町中に所在することが許可され、大坂市中に展開したことがわかる。それには石山本願寺(元一向宗本山)がもともと借地(守護細川氏)として出発し地子を納める立場にあったものが、寺内を要害化し、御坊を中心に寺内6町をはじめ枝町を展げ、対外的に諸公事免許などの特権を獲得する一方、裁判権・警察権などの支配を強化して寺内の一円化を達成して都市的繁栄をみた(織田信長と対決し開城)、という事実が先行条件としてあった。そして、豊臣秀吉により石山寺内を利用して大坂城を築かれ、四天王寺境内や天満寺内を組み込んだ計画的な城下の建設が行われ城南に寺町が展開されるが、城下町建設前から点在していた一向宗寺院は「町」に組み込まれた「境内」として安堵された。
2.中世京都は、荘園領主や公家・武家などがそれぞれ「境内」的な集住地区を形成していたが、東寺が境内の他に多数の散在所領をもっていたように、権門の一円所領と散在所領が混在し支配関係も複雑に交錯していた。“寺辺水田并屋敷指図(教王護国寺文書・寛正5(1464)年)”に描かれた東寺の寺辺(方2町の境内最外部の寺辺に囲まれた内部に寺内、更にその内側に伽藍という同心円状の構成)を見ると、壬生大路の両側に在家があり田中在家の裏から坊城小路にかけて水田が広く分布している。また“山城国嵯峨諸寺応永鈞命図(応永33(1426)年)”は天龍寺・臨川寺を核として「境内」的な領域が形成されていたことを示しており、臨川寺がある街区は道路沿いに在家、その奥に菜園、一番奥に臨川寺があり前述した萱津宿の3層と似ていることがわかり、いずれも閉鎖的な境内と境内に内包される町という構成が確認できる。
また京都には、以前から市中に根を下ろし念仏や法談で庶民の信者を獲得するた都市型の浄土宗寺院が数多く点在し、町と有機的な関係を結んでいた。境内と町の関係は前記とちょうど逆の関係で、浄土宗寺院は町に取り囲まれ、境内は町人に開放されて町堂的なものであった。そのような公武寺社権門と商工業者が複雑に混在していた中世京都は、秀吉により、短冊型町割りと連動して公家地・武家地・寺社地などに区分けされたが、それには、こうした寺院と町との密接な関係を分断する意図もあり、寺町を構成する寺院に浄土宗寺院が圧倒的に多い。大坂の「町寺」型に対し京都は「寺町」型といえる。
3.江戸は、殆ど未開の武蔵野台地と谷地・低地の複雑な地形を克服し計画的に形成されたといっていい。中世の寺院は平川・局沢・数寄屋橋など内堀地区やその近傍にあったが、江戸期に江戸城外郭の神田・番町麹町・清水谷・桜田などの地区に移り、さらに明暦大火以後は外堀の内側にあった寺院(武家屋敷も)を外郭外に移転した。それによって建物の分散を図ると共に都市域を拡大し周辺部の宅地造成をも実現したのである。宗派別に移転先が集中しているのが目立ち、例えば感応寺(法華宗のち天台宗)は慶長元年神田に起立、明暦3年に古跡拝領地の谷中に移転、これを中心に本光寺・上聖寺・妙情寺など法華宗の寺院(感応寺借地)が移転し、門前町を形成した。一方、牛込横寺町では宗派は法華宗・浄土宗・曹洞宗などが満遍なく存在するが、いずれも門前町屋を付属する小境内群を形成し地域形成の磁場になっていた。移転には町もろともに移転した場合も認められるのである。
都市の巨大性と寺院の数は相関するであろう。京都洛中268洛外861(正徳5(1715)年)、大坂三郷424(延宝7(1679)年)、江戸御府内1097(内神社95、文政8〜11(1715〜1718)年)を数え、地方都市仙台では寺院132塔頭121(明和9(1772)年)、金沢では226(正徳5(1715)年)寺院がある。
以上のように境内と町は歴史的意味は違うにせよ各時代に存在したと考えられ、この視点から「境内都市史」の可能性を追求したい。また武士の館を中心核とする集合は境内とは呼ばれないが、境内に一脈通ずるものがあるところから、武家地からの解明も可能ではないかと思っている。
門前町屋と最初から形成された町屋だけの空間と市場・経済的原理、富田荘図の3層は意図的な区画か白地は菜園か墓地か、機能(土葬など)としての寺院の確立と都市化との関わり、寺とセットの門前町屋と門前地の町、支配形態・権力と寺・境内、大坂濫觴書の言うところは罰則か安堵か、町屋同様の寺の実体(しつらえ・門など)、三都論と地方都市論と現在の都市まちづくり、境内と北京四合院、境内と町の背後にある経済的格差、武家地のおもて長屋と町屋、明暦の寺院移転の意義(防御・宅地町づくり・埋設死体処理)、寺と経営と檀家数、佐渡相川のゴールド・ラッシュ時期の寺の進出、など。