第95回
(話題) 江戸の着物文化
(要旨)
江戸文化をアジアという視点からとらえてみると、まず、16〜18世紀は海のかなたのアジア諸国、更に遠くのヨーロッパと地球の動きがはっきり見えてきた時であり、日本の経済も文化もその動きに巻き込まれた時代であったといえよう。江戸文化をテキスタイル論、つまり、布、織物、染物の比較学を柱に、経済や貿易、資源問題、技術といったハード面と、日本文化の系譜といった文化面でみていくと、テキスタイルは地球と江戸とのかかわりをさぐる重要なポイントのひとつであることが浮かび上がってくる。
日本の着物は、漢民族衣装が変形したもので、ワンピース型巻スカートのアジア民族衣装のひとつである。着物はポピュラーなものであるのに、そうではないという観念が出てきた理由は、正装という考え方にもよる。例えば、現在の皇室では、着物は正装ではなく西洋衣装が正装とされ、日本の着物が正装になるのは婚儀のときのみである。この婚礼に着用する衣冠束帯や十二単は唐衣装が日本化したものであり、日本の正式という言葉の裏には、常に外国文化のかげあるのは、文化的に興味ある現象であろう。女性が現在着ている着物は、衣冠束帯や十二単の一番下に着る小袖、かつての下着であって、そこに自由な表現の始まりがあった。換言すれば、衣服の日本化は、崩すこと、俗化の道程でもあったのである。
源氏物語絵巻では人物の表情より、着物を中心にして長い髪も着物と一体として描かれている。保元平治絵巻では、着物に鮮やかな色彩がみられる。17世紀の初めころの阿国歌舞伎の一場面は、動きを着物で表現し、人間の身体が生き生きと描かれている。また、ポルトガル人、中国人、オランダ人に交じってポルトガルの衣装を着た日本人が描かれている屏風絵には、当時の着物に対する好奇心の強さがうかがえる。ピクニックが描かれた別の屏風絵では、辻ケ花模様、絞り、刺繍がみられ、男性が赤色を着たり、袖のない羽織を着て重ね着をしている様子であるとか、2枚のまったく違う色柄のものを重ね、上の小袖を上半身だけ脱いで、重ね着のコーディネイトもしている。当時の多様化した着物の文化が示されている。これらは後の時代の打掛や上下(かみしも)の重ね着とは違って、身体の動きが十分出るように重ねているのが特徴であるが、遊女絵の初期には、体が動くということだけではなく、前に向かって進む堂々とした感じが描き出されている。着物がそれを表現し、それが浮世絵の伝統になるわけで、寛文小袖の時代になると、体の細い女性が出てきて、着物の色とか柄とかをみせるための浮世絵が出始める。こうして絵画や文学で、テキスタイルが大きな役割の占めることになるが、これはまた日本文化の特質のひとつといえるものである。
着物は1枚の布をまとうものである。洋服は体の線にそって布を裁断をして縫い合わせるが、着物は1枚の布を何枚かに切り分けて縫い合わせる。したがって、カッティングによるデザインは存在しないから、自ずと色と柄の文様が重要になってくるのである。着物は、一方で体の動きを表現し、もう一方で、静止画としてみられるキャンバスになる。三井家の着物のコレクションのなかに、花鳥風月画の構図を着物に描いているのがあるが、町のなかの風景や遊廓のなかの文様、八景、文字が描かれた着物もある。風景をまとうことは世界や宇宙をまとう意識とどこかでつながっているのではないだろうか。着物のデザインのなかには、動くときにどう見えるかが設定されていたり、裏側に手の込んだ刺繍があって、歩くとみえるようになっているものもあり、そこでは動きもアートとしてみている。更にいえば、屏風に最先端のおもしろい着物が組み合わされて描がかれている誰が袖屏風では、着物はインテリアの一種としてさえ取り扱われている。
着物の生地の国産化への転換は、なかなかうまくいかなかった。木綿は16世紀に軍需用品や船の帆をつくるものとして急速に国産化するが、絹織物は生糸を輸入し、京都西陣で織られた。織物の技術は向上するが、生糸はいいものがつくれず、中国から銀で買っていた。銀を初めとした資源の豊かさが、日本の産業化を遅れさせたともいえる。
木綿は桟留縞を初めとする縞模様とともに、ポルトガル人といっしょに日本に来たアジア人によって多量に入ってきた。それまで、縞は日本では筋と呼ばれていたが、縞は東南アジア諸国の島々から入ってきたデザインであることから、「島」と書かれていた。浮世絵のなかで細かい縞が表れてくるのが、18世紀中頃以降の春信の絵である。この頃に東南アジアの縞が日本中に普及したことがわかる。
絣は、インドが起源でアジア各地をめぐり、琉球を経由し、それぞれの地点で特徴ある絣を生みながら、現在の新潟県あたりまで北上した。絣を織る糸は、糸で防染をして染めるイカットと呼ばれる技術によってつくられる。先染め糸を組み合わせてきれいな文様を織っていくアジア共通の高度な技術なのである。
更紗はインドが起源であるが、東の日本へいって和更紗になり、西の果てのイギリスまでいった。インド更紗は18世紀のイギリスのインテリアによく使われ、ヨーロッパ文化にまで影響を与え、イギリスでは労働者の職を奪ういう理由で、更紗使用禁止の法律ができるほど流行した。
バリ島では、ツンパルという鋸歯文様や弁慶格子がよくみられる。鋸歯文様というのは、忠臣蔵の討入時に着ている羽織の袖口にみられる馴染み深いあの模様である。また、バリ島の儀式の場では、決まった模様の布を室内の柱いっぱいに巻き付ける風習がある。インドでも、庶民の結婚式は布をぎっしりとぶら下げたテント内で行われる例がある。
このように布で空間、儀礼、マジカルパワーを表現し、布に魂がこもっているという考え方を持つ。これらの要素はアジア共通のものである。縞、更紗、絣など、江戸時代に庶民が着ていたものがすべてアジア諸国と関係があり、ヨーロッパ文化にも影響を与えた。アジアと日本をつなぐものとしてのテキスタイル文化は、今後の展開が期待されるおもしろい研究テーマである。
鋸歯模様の起源と山の信仰、江戸時代のラフな着用法、着物のリサイクル性、外国文化を正式とする外国コンプレックス、麻と木綿、死者と着物・布、願い・祈りを運ぶメディアとしての布、紐の効用、日本的な感覚の友禅、着物・帯・羽織・小物の自由な組合せ、山東京伝の着物に対する卜書、外では背広・家では着物の男性、個性的な着物文化の復活、着物と時代と階層、表・裏文化のないまぜ、など。