第94回
(話題) 歌謡曲のなかの東京
(要旨)
表題の“歌謡曲”とは、いわゆる“はやり唄”“流行歌”のことである。江戸時代には清元・長唄・新内などが“はやり歌”であったが、大正3年(1914)の「カチューシャの唄」以降もっぱら“流行歌”と称されるようになり、昭和8年(1933)年頃から、流行していないのに流行歌はおかしいとして“歌謡曲”と言われるようになった。ここでは、主に昭和5年(1930)年頃から現在「渋谷系ポップス」といわれて渋谷のレコード店を発信基地としているものまでを対象として「歌謡曲のなかの東京」を話題としたい。
明治時代から“東京”は歌われていた。明治33年(1900)・滝廉太郎の「花」は「隅田川」を歌っている。隅田川は当時の東京人にとって特別の意味を持つ川であった。また、東京は青雲の志を遂げる土地でもあった。校歌・寮歌は盛んに東京の地名を織り込んでおり、「明治大学校歌」には駿河台・時代の暁・維新・権利・自由・独立・自治など、東京が一つの極であり、時代の夢がある場所としての歌われ方がされている。そこには一校寮歌「ああ玉杯に花うけて」と同様に自己陶酔の側面もあり、ナショナリズムの高揚という面もあるが、よく明治期の雰囲気を伝えている。教化的側面を代表するものに「鉄道唱歌(明治33年(1900))」、「電車唱歌(明治38年(1905))」がある。前者の1〜2番の歌詞は東京を対象とし、後者はあたかも東京市内案内である。特に電車唱歌は、まず皇居を出発し路線に沿って名所を歌い込み、靖国神社の“大君のため国のため…”で終わるもので、地理の勉強をしながら愛国心を育てる意図が窺える。学校でも教えたようであるが、父から子へと家庭でも伝えられた。これらの歌はみな西洋風の節回しであるが、大衆レベルの“はやり唄”は、関東大震災の「復興節」に聞くような節回しが本流であった。学校教育で取り入れられ教えられた曲とのギャップは極めて大きかった。
昭和4年(1929)の「東京行進曲」になると、上記に比し格段に曲想が素晴らしく、歌詞にも地下鉄や新宿がでてきて新鮮に感じられ、昭和11年(1936)の「東京ラプソディー」ではテンポが早く一層モダンな曲になり、銀座・神田・浅草が出てくる。しかし、憧れの都会(東京・大阪(道頓堀行進曲など))が歌い込まれたいわゆる“都会賛美調”の歌は「東京ラプソディー」で終わり、これから“軍国調”が始まる。
さて、戦時中の「九段の母(昭和14年(1939)」は上野駅から始まるが、戦後の歌も上野を起点とするのが多く、昭和39年(1964)の「ああ上野駅」は集団就職で上京した若者の歌であったし、昭和32年(1957)の「東京だよおっ母さん」も上野から宮城・九段・浅草と巡っている。高度成長期の東京を示すものに、例えば、昭和30年代の「東京へ行こうよ」がある。これは“東京へ行けば何とかなるさ…”と歌い、とにかく東京に行けば仕事にありつけるという気分を代表するものであった。この時期は女性の職場進出も著しく、「東京のバスガール」などがある。バスガールは若い女性の憧れの職業であった。このように中学生・青年・老母と世代の違いはあるが、高度成長期を背景にした東京の表情をよく伝えていると言える。戦後の東京に関する歌謡曲は、“現実悲観調(星の流れに(昭和22年(1947)など)”“現実楽観調(東京キッド(昭和25年(1950)など)”の風靡から、1950年半ば以降の“モダン東京賛美調(有楽町で逢いましょう(昭和33年(1958)など)”、そして“都会・地方交流調”の歌謡曲と言える。一方、1960年代にかけてロック(昭和33年(1958)に第1回日劇ウエスタンカーニバル)がブームを呼び、輸入まがいのサウンドを演奏するグループ・サウンズ(スパイダーズなど)が輩出した。1970、71年の「日本語ロック論争」をきっかけに歌謡曲の状況は大きく変わり、新しい世代がニューミュージックをひっさげて登場してきた。東京の歌われ方も大きく変わってしまう。
東京は、1970年代までプラス面で歌われてきたが、団塊の世代にとっての東京は「思い出し」の機能を持つものとして歌われた。「神田川(昭和48年(1973))」のいわゆる“四畳半フォーク”に代表されるものがそれである。「思い出し」の機能を持つ代表的なものとして「学生街の喫茶店(昭和47年(1972))」、「無縁坂」、少し下がって「金色のライオン」などをあげておきたい。他方、東京と地方との関係を示すものとして、上野を基点とする「北方型」の心情を歌ったものは、1970年代以降も歌われる。東京駅を基点とする西の方との関係ではそうした心情はみられない。例えば、「母にささげるバラード」の作者は福岡であり、そこでは東京で「輝ける日本の星」となって帰ってこいと母が叫ぶのであり、同じ福岡の伊勢正三の「なごり雪(昭和51年(1976))」は女性の別れを歌う。
東京の歌われ方が変わったのは1970年以降であろう。「日本語ロック論争」の一方の旗がしらであった「はっぴーえんど」は、歌の中で都市東京の批判を展開した。例えば、「花いちもんめ」では思い出すのはスモッグであり土埃であり紅い煙を吐く煙突であった。以降名所の東京ではなく、「日付のないカレンダー(昭和51年(1976))」や「小さな歴史」のように、東京に生きる団塊の世代の今の生活・人生を歌で綴った傑作が生まれている。その中で注目しておきたいのは女性の意識の変化である。70年代前半の“女は待つ人”の歌われ方から、80年代にかけての“女は都会の中で自分なりの生き方をする”歌へと変わっている。80年代に入ると、それ以前と時代を画したと言われる傑作・岡村孝子の「Liberte(昭和62年(1987))」では、男と別れても、はっきりと自分で自分の生き方を決めていく歌となる。今までは別れた男への恨みを歌っていたが、「夢をあきらめないで」では逆に別れた男を励まし、応援歌を歌うのである。こんな女性の、いわば元気の良さに対して、男は、叙情的になっているようである。いま注目されている“渋谷系日本ポップス”にもその傾向が見える。歌は世に連れ世は歌に連れというが、これからはカラオケで歌い易く、メッセージ性があり、人生を勇気づける歌が流行するのではあるまいか。
シャンソンと日本の西洋文化受容姿勢と童謡、明治期(鉄道唱歌など)・大正期の歌謡曲の伝播メディアと学校教育、電車唱歌と名所双六と組合された江戸・明治、メディアの変化と流行させる事・流行に乗る事、歌謡曲の立体化と映画・新聞小説などとのタイアップ、歌とラジオ・テレビとカラオケとの相乗関係、今後の傾向と日本情緒の行方とカラオケなど。