第92回
(話題) 野村コレクション「小袖屏風」とその周辺
(要旨)
表題の“野村”は野村(証券の祖)財閥ではなく野村正治郎のこと、「小袖屏風」は本物の古裂(こぎれ)(室町〜江戸後期)を“誰袖(たがそで)”風に貼り付けて二曲一隻に仕立てた屏風を言う。コレクションの小袖屏風は高さ190cm・幅180cm×2で、100隻あり、実物の織物を素材としているだけに、染色の資料としてはもちろん、染色史・風俗史の研究に欠かせぬ作品である。その上、構図・配色・衣桁など細部まで配慮され「描かれたもの」と見まごうほど絵画的であって芸術的にも高く評価され、美術史・芸術史の研究にとっても貴重な作品と言える。しかし今までは、作者も作品も、まともに評価され、正面から取り上げられたことは無かった。
野村正治郎は、明治・大正期の京都府は縄手通り新門前に店を構える裕福な美術商(明治12(1879)年生まれ昭和18(1943)年没、行年64歳)として知られているが、小袖やコレクションに興味をもつ契機は母シテの趣味にあった。シテは裕福な生まれながら活発な性格で商売に興味をもち、趣味が高じて、歌舞伎役者が行き来する南座の近くに和服小物の店をだしていた。少年正治郎は、母が外人相手に10銭の風呂敷を10円に売る様子を見て、各国間の貨幣価値や商売の妙味にひかれ、扱う和服小物や染色にも興味をもつようになった。シテもその傾向を好感し、彼が語学習得のためにアメリカ旅立つときには、渡航費だけ現金、あとは売って生活費とするよう「浮世絵」を渡して、浮世絵売買を介して生きた語学と美術関係の広い交際と商売・接客方法などを身につけて戻るよう願ったという。事実、期待に応えた彼は、のちに外人客目当ての美術商へと店を転進させて大成功するのである。このように、商売としての「美術商」を基にコレクションしていくのだが、13歳当時の彼が魅入られ購入した小袖がコレクションに入っているところからみると、価値を見極める才能にも恵まれていたのは確かであろう。コレクションにはかなり古い古裂も入っている。それは例えば、つてを辿って古寺を訪ね、要望に沿い新しく織った織物と、古い幡(ばん)・打敷(うちしき)・袈裟(けさ)などとを交換する方法で集められた。
最初のころは「商品」と「コレクション」の意識が混然としたままの収集であったが、顧客で懇意にしていた米の財閥ロックフェラーJr.から愛着限りない「友禅染振り袖」の譲渡を懇願され、やむなく手放した苦い経験を契機に、両者を別々に考えるようになった。なお、この友禅染振り袖(重文)は、正治郎の愛惜の深さを察したロックフェラーJr.が帰国の際に京都に残して去る、という逸話が添えられている。
正治郎はコレクションと商品とを区別する一方、研究にも力を入れ始め大正9(1920)年「友禅の研究」を発表するが、“美術商”ということで手痛い批判を受けたこともあって学界に不信感を抱くにいたり、以降、コレクションを純粋に資料として発刊・公開し世に紹介していく方法を選ぶのである。1.大正8(1919)年「誰袖 百種」、2.昭和2(1927)年「小袖と振り袖百種」、3.昭和6(1931)年「小袖 五〇種」、4.昭和7(1932)年「続小袖と振り袖 百種」と続き、1はデザインの紹介、4の昭和7年では資料として展示した後の刊行であるが、彼はここで行き詰まってしまう。理由は、コレクションには完全でないもの、つまり片袖を寺に納めたあとの「振り袖」を「小袖に直し」模様の繋がらないものなど、逸品ではあるが不完全な収集品は完全形にこだわるあまり公開に踏み切れなかったからである。小袖屏風を制作しだしたのは、この昭和7年からのようである。桃山時代から江戸時代にかけて流行した「誰袖屏風」にヒントを得て、完全形に復元できずとも、見た目に美しく人前に出せ、研究資料になりうるとの思いから取り掛かり、昭和13(1938)年の「雛形小袖屏風百隻」刊行までに、小袖屏風100隻を完成したものと推察される。これは野村の菩提寺・京都徳正寺所蔵の小袖屏風の裏に正治郎の自筆で“小袖屏風に特許を申請中”と書かれており、対応する意匠登録は昭和7年に提出されている事実から確かめられる。
小袖屏風は昭和16(1941)年に京都帝国博物館で初公開された。そのご、娘婿に代替わりして店は倒産(昭和30年)、小袖屏風や小袖コレクションは一家と共に渡米し、各地の博物館などの所有になるが、昭和45年に歴博がメトロポリタンから小袖屏風100隻を買い戻している。なお、現在判明している小袖屏風は、完成しているもの107隻、誰袖風に裁断され貼り付ける直前の工程の29隻分の素材を合わせると136隻になる。おそらく正治郎は、もう1組100隻の小袖屏風を作るつもりではなかったろうか。
ともあれコレクションは研究を意識して集められており、古裂や「打敷」の収集品を含め、裏裂れの記録から時代を特定でき、いつ納められたか記録が残りその下限が分かるなど貴重な情報を提供するものも多い。なによりも、不定形な形の「残り裂」に新しい生命を与えた点を評価し、近世の染色・風俗・美術の資料として以上に、芸術作品として取り上げていきたい。
昭和30年の倒産と娘婿(しずお・日系米人)一家の渡米、渡米時に持参したコレクションとその行方、風俗研究会と吉川観方と正治郎、屏風仕立ての発想と誰袖様式への統一、登録申請(衣桁に金物使用)の意匠と実際(金物使用せず)、制作の目的と売却された小袖屏風、デザインの指示と制作実作業の職人、貼り付けに使用した糊と保存状態への影響、野村家での格納方法と使い方、など。