第90回
(話題)  河鍋暁斎と江戸東京
(要旨)
江戸の伝統と近代文化を考えるとき、河鍋暁斎(酒乱斎・猩々狂斎とも)の生涯とその業績はまことに貴重な示唆を与えてくれる。暁斎は天保2年(1831年)下総国・現在の茨城県古河市に藩士河鍋喜右衛門の次男として生まれ、間もなく父が幕府定火消・甲斐氏の後を継いだため一家で江戸へ出て本郷お茶の水に住まうが、幼時より画才を発揮し、7歳にして歌川国芳の門に入り浮世絵を修業、10歳で狩野派の前村洞和、続いて駿河台狩野洞白に学んでいる。暁斎17歳の作品「毘沙門天」を見ても並々ならぬ画才・力量が窺われるように、早くも19歳にして師・洞白から「洞郁陳之」の号を与えられ一人前の画師として認められている。この間、9歳のとき神田川で生首を拾い描写し、16歳の小石川大火の際には自家の炎上を尻目に火事場の状況を写生したと伝えられるが、旺盛な好奇心と技法を習熟していくなかでも「狩野派の手本・様式」の枠にあきたらない心情を語っているように思える。嘉永4年(1852年・24歳)洞白の祖母の墓前で三番叟(さんばそう)の狂言を踏んで供養したというから、能・歌舞伎役者や戯作者・文人との交流もあり、幅広い素養を身につけていたことがわかるが、暁斎の描写は西洋風に「物を見て」描くことに真髄があり、能を描いて“能の所作・筋肉の動きそのまま”と能役者を感嘆させ、様式的な錦絵しか知らなかった外国人は、特にその「席画」の早さ正確さに舌を巻いて驚いたという。
流派に縛られることを嫌った暁斎は24歳で独立、まもなく戯画の世界にテーマを見いだして、安政の大地震(2年・1855年・25歳)では仮名垣魯文の戯文に鯰絵(なまずえ)を描いて版行し、安政5年(1858年)28歳のときに扇屋・伊勢新のすすめで狂画を描きはじめ「狂斎」と号して人気を得た。豪放磊落(らいらく)、酒を好んで常に離さず、酔う程にますます画境に入り傑作をものしたといわれている。狩野派からの転換には、当時襖絵は50枚で1円と狩野派の絵師では生活にも事欠く有様であったこともさりながら、内には天保改革の余波や尊王佐幕の対立あり外にはペリーの浦賀来航ありなどの騒然とした世相の影響もあったろう。世は正に江戸から東京への激しい変革の坩堝の中にあったのである。暁斎の幽霊や妖怪を描いた作品は、特に幕末から明治前期にかけての動乱の社会に対する厳しい観察を通して、特異の時代感覚を表現したものが多い。
明治3年(1870)40歳の狂斎は、10月6日不忍弁天での「書画会」で酔いにまかせて描いた風刺戯画が右大臣・三条実美を批判したとして逮捕投獄された。翌年1月30日笞(むち)50の刑をうけて放免となるが、これを機に号を「暁斎」と改めている。その後、魯文と日本初の絵入り滑稽雑誌「絵新聞・日本地」(明治7年)を創刊、書画会や著作・教科書の挿絵を盛んに描き、ウイーン万国博(明治6年)や第一回内国博覧会(明治10年)に出品し、さらに新富座に絹張行灯絵を掲げる(明治12年)など、多方面にわたり、山水花鳥・風俗・戯画・妖怪画から美人画まで、多才かつ多作の活躍をするのである。
最近、今まで「鹿鳴館」とされてきた絵は「パリ・オペラ座」と判明した。左右に大きく紳士淑女を配し後方にオペラ座が見える構図は従来の錦絵を踏襲するが、国芳や春信などと異なり写生に基づくしっかりした骨格の紳士淑女である点に注目したい。また「釈迦如来図」はあたかも外国人をモデルにした「キリスト図」のようであり、衣の下の肉体を的確に表現して「日本のレオナルド・ダ・ビンチ」の名に相応しい才能を見せている。この物を見る確かな目と写生の技は「極楽大夫」「地獄大夫」あるいは「水汲み」などの美人画でもはっきり認められよう。その一方、明治14年(1881年)の第二回内国勧業博覧会で最高賞を受けた「枯木寒烏(かんあ)図」は宮本武蔵の「枯木鳴鵙(めいげき)図」の一幅に似て日本画の神髄を示すような作品である。また「竜頭白衣観音」は狩野芳崖のそれを凌駕(りょうが)するほどの逸品と評価できよう。さらに風刺のきいた戯画は北斎にも増して生き生きと当時の人物と世相を筆にしている。
このような暁斎の絵は狩野派の伝統画法を習熟していたからこそ可能だったのである。絵筆を持たぬ日はなかったという暁斎は、描く対象や筆遣いなど実物を見なくても描けるほど伝統の技能を習熟した上で、しっかり見て描くから「席画」は正確で早かったのである。暁斎の生涯は、仏人ギメ・画家レガメー(明治9年・肖像競作)や英・建築家コンドル(明治14年・弟子入り)、岸田吟香・田崎草雲など内外の多くの人々との交流の中で、浮世絵・高山寺の鳥獣戯画・葛飾北斎などから刺激を受けつつ、「自分のもの・斬新な日本画」を探し求めて歩んだ一生といえ、画業を通して江戸を東京へつなぎ、江戸の伝統を近代文化に生かしたといえる。
公立小学校と寺子屋(私塾)の数と教育制度の功罪、公立学校と京都・長崎・江戸の私塾、明治に導入した絵画・音楽・体育教育と伝統、小林清親と暁斎の似た生涯、鳥獣戯画・北斎・暁斎の漫画と戯画の伝統、暁斎の画風と独自性、当時の絵師(切絵図の歌麿住居)と明治の画家の生活と世間の評価、暁斎の歌舞伎幕絵とその反響、岡倉天心の芸術(絵画)観と日本のアイデンティティと高橋由一、文明開化と政府・庶民の変貌、絵日記の風習と暁斎絵日記など。