第89回
(話題) 川越のまちなみの復元
(要旨)
第20回(1988年4月)のフォーラムで「小江戸・川越のまちとすまい」を取り上げたが、その後の調査・研究を含め「まちなみの復元」について話題とする。川越は江戸に近く、早くから“北の守り”として重視されてきたが、寛永15(1638)年の大火により城をはじめ城下町・喜多院など全焼する事件があり、壊滅的打撃をうけた。そこに入封した老中・松平伊豆守信綱は、川越城を拡大再建し、地割・町割を行って城下町に十カ町・四門前を整備して市(いち)を開き、野火止用水を開削して武蔵野開発を図り、また江戸との間には新河岸川の舟運や川越街道を開設するなど藩政の確立に力を尽くした。町は江戸日本橋を範とし、江戸との往来も賑々しく「小江戸」とも呼ばれたが、その後、明治26(1893)年に大火がおこり近代的商業都市に発展しようとしていた川越に大打撃を与えた。
復元に当たり使用した原資料は、新発掘を含め、1.川越町聯合戸長役場作成・明治16年調“徴発物件書類・家屋取調書・建家図”、2.明治4〜6年作成の川越町の“壬申戸籍(写)”、3.江戸末期の“沽券絵図(写)”、4.町名主所有の明治6年“地券書上絵図”、5.法務局作成・保管明治23年以降昭和32年までの“川越町土地台帳(除票)”、6.陸軍省明治14年作成“明治前期手書彩色絵図(迅速図)”、7.明治26年“川越大火消失絵図”、8.明治18年“武州川越繁昌店万代鏡”、9.明治34年“川越町勉強寿語録”、10.明治35年“埼玉県職業便覧”、11.明治44年川越町作成“川越町白地図1/20000”、12.川越市住宅地図帳(1975年版)である。
資料は例えば、3.は喜多町と志多町分のみ、4.は志義町・上松江町の分だけというように欠落が多く、かつ資料の作成年代の差があるなど限界があるが、パソコンにインプットしてデーターベース化してある。これらの資料を相おぎないつつ解読・考察し、加工と分析を加えることにより、町別の住宅・宅地・世帯の分布、住宅と宅地の関係、住宅と職業・世帯規模などを解明し、かつ宅地・住宅状態(平面など)や居住者の状態(戸籍・転居など)などを明らかにしながら、連続平面図(本町)の復元に漕ぎ着くことができた。もっとも道路境界と家屋の位置の関係などは詳細には不明であり、これからの資料発掘分析に待つ点もある。
さて、明治初期の川越の町は、混住はしているものの、おおむね上五カ町は商人町、下五カ町は工業町、四門前は雑業の町といった性格をもち、町家もそれぞれ572戸・372戸・216戸あった。銭湯・銀行・高座・工場など具体的な建家図をみることができる。
住宅形式は戸建が65%(823戸)、残りの35%(444戸)は連続住宅で、戸建が他の都市と比較して多い。連続住宅は分割(大きな家を既存の部屋割りに沿い分割仕切ったもの)8.7%、分割長屋(仕切りが直線の一枚壁だかこれぞれが個別的なもの)19.3%、長屋(9尺2間のような規格長屋)6.7%からなっており、分割長屋が特徴的である。
規模では1階面積で平均、戸建が19.5坪、分割15.34坪、長屋9.05坪であり、長屋の9.05坪は、江戸など当時の水準よりかなり高いように思われる。一人当たり面積は、それぞれ2.00、1.66、0.59坪である。また、町別で見ると上五カ町は20坪以上、下五カ町はそれより少し小さい坪数を中心に広く分布しており、四門前の10坪をピークとして5〜20坪が多いのとは対照的である。
住宅所有形態別の住宅規模では、持家が10坪台、20坪台、その他、に1/3ずつ分布しているが、借家では10坪未満も29%を占め、規模の大きさは持家が借家を大幅に上回る。
職業別では商業が20坪台が最も多く小規模から大規模まで広く分布し、工業10坪台、雑業10坪以下(工業(職人)や雑業は長屋居住が多い)と職業間の格差が明らかである。特徴的なのは設備で、とくに押入は各職業とも80%以上が備えており、狭小な長屋の多い江戸の町家に比べて水準が高く、川越では押入が必需品とされていたことが窺える。専用便所も46.8%と高く、床の間は19.2%、専用風呂は6.5%であり、商家では半数近くが蔵・土蔵を保有している。
職業によって貧富の差があり、住宅規模・設備・空間構成に反映しているが、座敷と土間・板間の割合は職業による差も大きい。全体的に前土間が多いが、住宅形式から傾向をみると、前土間は長屋に、後土間は分割・分割長屋に、通り土間は戸建に多い。面積では、本町の表店82戸・裏店54戸の例をとると平均で、表店では1階面積17.41坪に対し土間板間9.47坪、裏店は10.41の中3.63坪である。前者は商・作業空間としての土間であり、後者は主として住まいのための住空間と考えられる。
土地に目を向けると、一筆あたりの面積では凡そ上五カ町200坪、下五カ町150坪、四門前100坪である。一等地は角地・交通量の多い場所であり、商業に最適の位置にあるが、等級の低い所には空地などが見られる。
明治4〜6年の壬申戸籍と明治16年の徴発物件資料との11年の期間は維新直後から松方デフレに至る激動期であり、転居率も高かったと推定される。資料から職業的には工業・雑業世帯、所有形態では借家層の転居率が高いことが読み取れるが、人口移動は上五カ町は増、下五カ町は減、四門前は増となっており、土地一筆あたりの面積が小さくなってスプロール化が進んでいるといえる。
(討論)
分割・分割長屋・長屋の分類方法とネーミングと表長屋、所有者と分割・戸建・長屋の関係、専用・外・共同便所の表示の有無、路地と通り土間と長屋へのアプローチと沽券、土地等級と地租基準と営業税、兼職と職業の分類と営業税資料、上五カ町・下五カ町・四門前と行政機関との関係、徴発物件と武家地、東と西の遊女屋の位置など。