第87回
(話題)  メキシコシティと東京の間で
(話題要旨)
メキシコの歴史は、先スペイン時代を除くと、アステカ帝国征服に始まるスペインの植民地時代(1521〜1810)、独立運動から連邦共和国の成立、長期政権による経済開発の進捗など近代国家形成時代(1810〜1910)、1910年のメキシコ革命を起点とする現代までの社会主義的改革時代(1910〜)の3期に区分されよう。首都メキシコ・シティの前身はアステカ帝国の湖上都市テノチティトランだが、現在は人口1,500万(ZMCM=首都圏で)に達する大都会である。日本と異なり、ほかは地方の小さな都市ばかりで大阪・名古屋・福岡などに匹敵する大都市はないが、都市への人口集中が進み、1990年には都市住民が全人口の70%、首都圏は13%を占めるにいたっている。メキシコ・シティの爆発的な膨張のなかで私有地・公用地の不法占拠による「コロニア・パラカイディスタ」が各所に数多く見られ、低所得者層の居住区が大通りを挟んで富裕者層に接しているのが見られる。しかもこの国では極めて貧富の差があり明瞭な階級差が存在する。
エル・コレヒオ・デ・メヒコ大学で近代日本文化論を講ずるため訪れたメキシコ・シティの第一印象は、アステカやマヤの異文化でもなければ貧困と大量のスラムが取り巻く第三世界の都市でもなく、圧倒的な勢いで進行する北米化であった。予想をはるかに超えてモノが溢れ、スーパーが建ちファミリーレストランが並び、ファッションから情報機器・台所用品まで、北米式の消費文化は急速に都市生活に浸透しつつあった。
この傾向は、1986年メキシコがGATTに加盟し、1988年に制度的革命党(PRI)のサリナス・デ・ゴルタリが大統領に就任して、新自由主義の経済政策を積極的に推進し始めて以来いっそう加速されており、それは昨年11月のNAFTA(北米自由貿易協定)への加盟によって更に倍加されると考えられている。両国間の関税が引き下げられる中で、米国の対メキシコ輸出は1986年から1992年までに6倍に増え、他方、メキシコは輸出の約7割を対米輸出に依存し額も4倍に増大してきた。サリナス政権はその膨大な貿易赤字と過剰労働人口に示されるメキシコ経済の危機を、大量の北米資本導入により埋め合わせようとする。つまり、北米にとことん従属することでなんとか生き延びようとする戦略は、たしかにここ数年、物質的豊かさを享受する都市中間層を増大させ、メキシコは第三世界から脱し第一世界の仲間入りをするという幻想をいき渡らせていた。
ところが、このような印象は、コヨアカン地区(そこは貧富の境界線に近く「コロニア・パラカイディスタ」の歴史をかいま見ることができた恰好の場所でもあったが)の恵まれた環境で半年間の生活を送る間の、電話が壊れる・水、電気がとまる・銀行への送金が途中紛失する等々のトラブルが続くなかで、根底から崩れ去っていった。表面的な北米化・消費社会化とその中身との亀裂である。この社会には北米化する資本の論理とは別のところで平然としている異質な場と、次に何が起こるかわからない不確定性が無数に伏在しているのではないかと、という点への関心である。
そんな最中の1994年1月1日、メキシコ最南端の州チアパスで、先住民・農民千数百人が武装蜂起し、「サパティスタ国民解放軍(メキシコ革命の英雄サパタの名からとる)」と名乗ってNAFTA反対と民主化や、先住民・農民の生活改善などを訴えたのである。チアパスの叛乱は単に反政府の軍事行動だったのではなく、NAFTAに象徴される北米化の流れに身を任せつつあったメキシコ国民に対して根底から問いを突き付ける行為でもあった。蜂起は、新自由主義が農村の貧困と権威主義的な支配を悪化させこそすれ、いささかも解決するものではないことを明らかにし、叛乱軍はこの問いかけを巧みな情報戦略で新聞・雑誌などを通じて行ってメキシコの世論を味方につけただけでなく、覆面の副司令官マルコスなどは若い女性の人気の的となり、武力では対抗できない政府から譲歩を引き出すことに成功している。
この事件は、北米化するメキシコとは異なるもう一つのメキシコを浮上させた。「北米化」と「第三世界」、この互いに背反するベクトルを含む両者は、現代世界の中で錯綜しながら共存し、資本と情報を介して拡散・増殖し続けている。高度化する資本のテクノロジーが全世界を覆って行くと同時に、膨大な「第三世界」の貧困や差別も全地球的現象となっていくのだ。メキシコは、東京では見えにくくなっているこうした現代的状況を、典型的に示している社会の一つである。
1980年の前と後のメキシコ北米関係、正義と革命・叛乱・改革、1980年代東京の高度コマーシャリズム・フィクションとメキシコシティのリアリティ・亀裂、土地不法占拠と都市の誕生・成長、メキシコ・アメリカ戦争とテキサスへのメキシコの思い、ペニンスラール(本国から派遣されたスペイン人)とクリオーリョ(新大陸生まれのスペイン人)と独立戦争、原住民との階級格差、メキシコとラテン・アメリカ、など。