第80回
(話題) 首都の葬送空間−江戸・東京の火葬場と墓地−
(要旨)
日本は火葬の国である。火葬率は英国55%、デンマーク45%に比べ、日本は95%と群を抜いており風土に適した葬法であるが、行う場とその行為に対する不当な嫌悪感と偏見が極めて強いことも事実である。
江戸の火葬は、市街地が形成されると同時に各寺院の片隅で荼毘(だび)所・火屋(ひや)として臨時的に始められたと思われる。そして、各寺院の付属地が墓地として認められ、檀家は、付属の火屋で火葬としその寺院墓地に埋葬を行うのが一般的となっていくが、明暦の大火(1657)以降、江戸の街が拡大整備されていくなかで、火葬場も郊外地へ移転して専用施設化していった。それが江戸五三昧(さんまい)と称される小塚原・千駄木・桐ケ谷・渋谷・炮録新田の火葬場であり、幕末には南千住南組(小塚原)・深川霊巌寺・代々木村狼谷・上落合村法界寺などがあげられよう。例えば、千住の火葬場は、四代将軍徳川家綱が上野寛永寺へ墓参の際に火葬の臭気が東叡山におよんだのを咎めて下谷や浅草の寺院の火屋を移転せしめたものであるが、寛文9年(1669)、小塚原(南千住南組)に一町四方(約1ha)の土地を画して除地(のけち)とし、火葬寺20か寺が建てられ、幅2間の道路を東門から小塚原縄手まで78間、西門より下谷通新町まで130間が新設され、墓地と火屋の分離と火屋の集団施設化が進められた。
明治維新の廃仏毀釈(きしゃく)・神道国教化のなかで、仏葬としての火葬を問題にした神道派の主張を受入れ、政府は明治6年(1873)太政(だじょう)官布告で火葬を禁止し、9カ所の神葬(土葬)墓地が指定された。しかし土葬は東京府内には徹底したものの、禁止直後から、千住南組・砂村新田など等から「火葬便益論」を添え火葬の再開願が出され、結局2年後に、衛生上の見地や土地の狭小・墓地の高騰から火葬解禁に踏み切ることになる。そして、以前からの業者を中心に火葬再開願が続々と提出されるが、全て民営の方針として、許可条件規則を設けて取締の対象とした。
明治22年(1889)の「東京市区改正設計」において、火葬場は都市施設として位置づけられ、初めて都市計画の対象となり、桐ケ谷・代々木・落合・町屋・荻新田の5カ所を決定するものの、火葬場の移転・公営化は計画のみで実施されなかった。その後、八王子(明治43年)、氷川(大正11年)、戸田火葬場(大正15年)と、東京の火葬場は民営を主流に設置されるが、昭和に入ると公園課長井上清による都市葬務施設としての墓地・火葬場設置推進もあって、昭和11年(1936)、唯一都営の瑞江葬儀所(火葬場)が新たに設けられた。しかし基本的に既存民営施設の活用という扱いしかされてこなかったと言える。
また「改正設計」は共葬墓地として青山・雑司ケ谷・渋谷・谷中・亀戸の6カ所を定め、ほぼ原設計通り実施された。特筆されるのはこれら都市計画共葬墓地の公園・芝生墓地への変貌であろう。しかし、寺院墓地が宅地に換地されるなど減少する一方で、人口の集積・東京を故郷とする市民の増加に伴い墓地不足は深刻となった。市民は宗教法人と関係を持ちながら、民間ベースで開発されてきた「霊園」に頼るほかない現状である。そして、東京の火葬場は人口の増加や市街地の拡大にもかかわらず、嫌忌施設として市民から嫌われ、増設はおろか郊外移転もできないまま100余年間そのままの状況にあり、既存の火葬場は場違いな住宅地の片隅に取り残された状態である。
葬送は地縁・血縁を基本とし、戦後の家の制度の崩壊と民主化進行の中でも変化が最も乏しい部分であり、住宅で息を引き取り、隣近所の相互扶助で葬式が出され、火葬に付され、寺院や集落の墓地に埋葬という、古くからの慣習を引き継いで来た。しかし、今や殆どが病院で死を迎え、葬儀の場所も自宅から専用葬祭施設(主に民間)へ変化し、儀式のリーダーも葬儀業者に移行してきた。寺墓地から大規模宗教法人や自治体の霊園・墓地公園への流れとともに、葬祭の場としての性格を強く持っていた火葬場も、単なる処理施設として生活圏から引き離されていったように考えられる。
(討論)
東日本(全収骨)と西日本(一部収骨)の収骨の違い、西欧の遺体遺骨の“本物”への執着と日本の両墓制にみる精神的墓、日本の故郷へ帰る意識(戦没者の収骨運動)と西欧のその場で葬られるのを善しとする意識、中国の土葬と火葬の現状、多摩霊園新式納骨堂と合葬、アパート式墓と戸建願望(代々の墓)と生きた証しの伝え方、故人の希望による葬儀不要と撒骨などの葬送儀礼の現状、江戸裏長屋の住人の葬儀と実態、二重墓地の例(江戸勤番武士などの分骨と郷里と宗派本山)、現代人の故郷感欠落・移住頻度・遠隔墓地と墓参・地域コミニュケーション、など。