第77回
(話題) 江戸の町と京都の町
(要旨)
応仁の乱(1467〜77)後に荒れ果てていた京都の町は、元亀2年(1571年)は南北に分かれた大きな町組集落として復興していた。すなわち、御所と公家屋敷・武家屋敷など上流階級に密着した北の「上京」集落と、庶民的な南の「下京」集落が形成されていた。後の天正18年(1590)、豊臣秀吉はまだ市街地化していなかった上京〜下京間の地区(後の「中京」近辺)で正方形街区中央の南北に新道を通して短冊型の市街地を開発し、両集落が連続したというのが通説である。しかし、近年発見された天正・文禄年間(1573〜96)の資料「大中院文書」(京都市歴史資料館所蔵)によって、同地区も秀吉の都市改造以前、既に市街地化が相当進んでいたことが明らかとなった。
天正期の宅地は、間口については10間以上の大きなもの、4、5間のものも存在して一概には言えないが、2間内外の狭い宅地が多い。奥行は町の両端では短く、端から遠ざかるにつれて長くなり、正方形街区では奥行30間近くにもなった。この街区中央部に農地がある例や、町内に「農人」 の住んだ町も見られ、「洛中洛外図屏風」に描かれた中世末の面影をとどめていた。更に、大中院文書には宅地前の畠、空地、坪の内、宅地内の路地、川面にかかる家、上京集落を囲う土居の一部などの多彩な情報が記されている。このように近世初頭の京都は、多様な敷地利用形態をもっており、町の個性も強かった。また、中世末の上京・下京では周囲に巡らされた土居・堀とともに、薮も囲いの一部をなしていたと思われ、環濠集落との類似点が注目される。
近世に入ると、都市から中世的な多様性が排除され、均質化が進められた。例えば慶長15年(1610)徳川家康によって開かれた名古屋は、織田信長・秀吉以来の城下町「清洲」を移転したものである。清洲では自然発生的な要素を残した多様な外形の町々が、名古屋の計画的な方格状市街地に強引に収容されたのであった。
以上の事柄を予備的知識として近世都市建設期に注目し、京都と江戸を比較した場合、「街区中央部敷地の形態的類似」1と、「角屋敷の扱いおよび木戸の相違点」2を指摘できる。
1.周知のように、洛中洛外図に描かれた街区中央部は空地が多く、便所・井戸等の共同施設が設けられた。この場所は、江戸時代には大名や豪商の住宅となるが、都市江戸における正方形街区中央部の「会所地」も一部は上層町人等への拝領屋敷地であった。これら形態・性格の類似性から、江戸の会所地は京都の市街地から学んで設定されたもの、とは考えられないだろうか。
2.京都では、角屋敷はその属する町の街路側を開放して店を出し、それと直交する街路側は隣町の管理下にあるために、閉ざすのが原則であって、この原則は近世後期まで比較的よく守られていた。いっぽう江戸では、延享2年(1745)以前の三井越後屋本店における角屋敷の建築平面を見ると、側面の駿河町通側は奥の一部を開いているものの、正面だけを開放する町屋形式の変形であった。しかし、既に享保5年(1720)江戸本町の角屋敷では、横道に小店が建ち並んで側面を店として開放していたし、古くは寛永期の江戸図屏風(歴博本)にも横を開放した例を見出すことができる。以上から、江戸の角屋敷は、開府当初は京都と同じく表の街路だけを開放していたものが、急速に側面の開放に及んだと考える。二つの都市によるこの相違は、町における宅地形態と、木戸の位置の違いによるものではないか。京都の町は、街路両端にある二つの木戸に挟まれた区域で、角屋敷は規模も小さく番屋や町会所が設けられる町の「端」であり、町の「中心」は屋敷奥行が大きい街路中央近くであった。江戸では町内の屋敷奥行は一定の20間で、「中心」「端」の概念では把握できず、角屋敷は京都と反対に価値が高かった。また江戸では横町の木戸が角屋敷奥の町境に設けられていたために、横を開放することも容易だったのである。
木戸門と角までの間の所属と町相互の取り決め、天正期の京都・饅頭屋町で町家が街路にはみ出している部分は町家の形式が他と異なるのかどうか、街路幅の縮小された経緯と発掘成果、江戸会所地周囲の大下水の役割、短冊型街区の起源は古代にあって中世以降の正方形街区が後の成立ではないか、短冊型が秀吉からとすると何故江戸はそれより古い形態を採用したのか、江戸の町割の手本は直接に京都ではなく駿府などテスト済みの都市があったのではないか、洛中洛外図の街区中央部と職人の作業場、宅地割と中央部所有権の関係、江戸と京都の町割原理、敷地割と実際の土地利用のズレ、江戸の角店開口部と追い回し税金の確立、京都に比較して合理的な貨幣計算の江戸、など。