第76回
(話題) 近代における東京の都市庶民住居の発展
(要旨)
明治時代から昭和20年までの日本の都市の庶民住居の変化・発展を解明すべく、住思想・住形式・住生活の相互関係を考えながら、特に住生活の変化と住居の変化の対応に注目して、昭和52年頃から主に東京に残る庶民住居の実測調査を行ってきた。
近代の都市の庶民住居は、江戸時代の町人の住居に起源をもつもの−町家−と、武士の住居を源とするもの−周囲に庭をもつ独立専用住居−と、異なった2系統の住居形式(他に農民の住居がある)を持ち、それぞれの地区の歴史的な性格を反映させながら変化してきている。調査地の一つである佃島は、関東大震災と戦災を共に免れて江戸の名残を色濃く留める住居地区で、平均間口2.5間と小規模だが幕末及び明治初期から昭和初期までの様々な住居が含まれている。その中で、明治初期の桜木家と大正初期の亀井家の住居(両家とも2階建)を比較してみると、「出桁造」であり、側面の一方の側(この場合北側)に開口部を全く持たない点は共通するが、前者は2階前面を半間後退させ、かつ表通りに面した土間に台所の機能をもつ「おもてだいどこ」の形式をもち、後者は2階前面の後退がなくて総2階に近く、玄関と台所を明確に分離して勝手口を別に設けているという違いが見られる。また、後者は2階に床(とこ)をもつが前者は後になって取り付けたものであり、また時代がさがるにつれて「出桁造」が本来の構造的な役割を縮小し意匠化されてくることも分かっている。
上例のように、法律の施行と2階建ての変化、表台所と玄関、ガス・水道やガラスの普及、間取りの特徴と使われ方・住設備の変化などを総合的に考察すると、近代の庶民住居の変化の特徴は次のようになろう。
1.住設備の多様化……近代の住居は家族生活を重視する方向と接客空間を充実させる方向とを同時に充足させて発展してきた。
玄関及び床の間の普及、2階の客座敷化・続き間座敷の使われ方、廊下の発達などから考察検証されよう。
2.表側住形式の閉鎖化……水道やガスの普及など住居設備の近代化によって、住居形式は屋外に対する閉鎖性を高めることになり、近所付合い等の地域生活をも変化させた。
守貞漫稿の“表勝手文政以来行わる、井戸路上にある故便とす”とあるように、表台所は解放的であったが、ガス・水道の普及をはじめ、戸や引窓に板ガラスを用いて採光するなど近代化が進むにつれて閉鎖的になっていった。ちなみに佃島には水道が明治40年、電気・ガスは月島についで大正2年頃から敷設された。
3.敷地間了解の住形式の消失……開かれた表側と閉じられた裏側という住居形式を暗黙に認めることにより、お互いに侵害することのない住生活が維持されていたと考えられるが、表側の閉鎖化に伴い徐々にその住形式は消失した。
南側に路地をとった間口の狭い短冊型の敷地割りであったから、路地を住居の一部として利用しており、火や水を使う表台所は必然的な形式といえる。自然発生的な約束事や敷地境界側(裏側)を壁にして、生活を敷地内で完結させていた住形式が消失していった。
4.敷地内住居類型の多様化……江戸時代に既に十分に市街化が進んでいた地域では、以前からの住居形式が根強く保たれており、そのまま連続して発展していたが、明治以降に市街化の進んだ地域では多様な類型の住居が一敷地内に併存していた。
佃島は前者の好例であり、近代に入り市街化された音羽町地区では町家と独立専用住居が併存し、敷地境には自由に窓をつけ、塀で各住居を区画しており、塀で生活を分けており、後者の好例である。
5.住形式の漸進的変化……床の間の普及など内発的な要望・影響による住居の発達は漸進的に徐々に住居の形式を変化させてきたと考えられるが、法律の施行などの外因的な影響による住居の変化は住居形式を急速に変化させてきたと考えられる。
表台所の変化や床の間のある部屋の位置の変化などは段階的に追える住居の発展であり、正面をフラットにした町家の形式は歴史の連続性がなく、大正8年制定の市街地建築物法の影響であろうと思われる。ガス・水道・電気なども外因に含まれよう。
(討論)
玄関の普及における「生活空間の整理」と「武家式台・格式の影響」、玄関の「台」(腰掛にも踏段にも利用)の出現とそのルーツ・利用法、佃島の庶民住居は「町家」か「漁師町の形式」か、伝統の変化と庶民の上流指向の関係、佃島の町家は江戸の町家の典型か否か、佃島の土地家屋の所有関係・持家と大震災の被害、覗くことは覗かれること−地域社会の約束事とプライバシーなど。