第73回
(話題)  新説・日本近代住宅史
(要旨)
日本の近代住宅史を語るに際して、その形式の変化は、1.コロニアル式住宅(幕末・明治初期の長崎・横浜などの外人住宅、洋式化の端緒)、2.和洋併置式住宅(明治中期以降、従来の和館に洋式住宅を付ける)、3.中廊下式住宅(大正〜昭和の入口に洋書斎、中の廊下で表・裏に分ける)、4.居間式住宅(昭和初期から接客中心が居間・リビング重視へ変化、現在の主流)と説かれてきている。
しかし、定説といえるこの分類の意義は十分認められるものの、それらの相互関係が十分に解明されておらず、且つ具体的な使われ方についての究明は無いと言ってよい。例えば和洋併置式で洋は接客、和は日常、と言われるが実態は不明である。
コロニアル式は基本的に南洋植民地(気候)に対応した住宅様式であり、周囲(前面だけでなく3面)に部屋の延長としてのベランダを持っているのが特徴である。基本平面は4角形であり、各室のベランダは談話したり昼寝したりする唯一の冷房装置のある場所であった。同じ様式は地中海地方にも若干あるが、植民地住宅に倣い発達したとの説もあり、まずヨーロッパには無いといっていい。コロニアル住宅の外観は、フランス系、アメリカ系、イギリス系に類別できる。調査結果は植民地ごとに領主国の特徴ある様式を最後まで守ったことを語っている。
4面形を基本とする中で、日本最古のコロニアル・グラバー邸(1863建)は海側全面にベランダが開かれたクローバー形の特異の平面を持っている。これは中国アモイに残るジャーデイン・マゼソン社支店長邸(1878建)と酷似しており、同邸はグラバー邸に学んだと見られ、両者ともオートルスの設計になるものと推測されている。アモイや長崎は気候温暖で東洋の別荘地のように目され、特異な扱いとされたのであろう。
これらのコロニアルは日本の住宅に大きな影響を与えた。例えばコンドル及びその直接の弟子(片山東熊等)は全てベランダを付けた邸宅を設計している。次の代では、ベランダは消え或いは冬用のサンルームに変質し発展していくが、コロニアル式は日本に根付き、日本近代住宅に長期間影響を与えた様式であると言えよう。
純洋式は天皇家を最初とするが、洋式採用とはいっても純粋の洋式住宅は少なく、コンドルの設計を含め明治中期からの邸宅は和洋併置式が大多数である。例えば岩崎久弥邸(1896建、コンドル設計)は大名邸宅に洋館が付いた形で、生存者の使い方の記憶をたどって見ると、洋館は接客を主としたハレの部であったが、和館においても広間では結婚式や一族の正月祝賀・雛祭りなどが行われ、中庭を挟んで南側は家族居室が並ぶハレの部、北側は女中部屋・ふろ・台所などケの部であったことが解る。注目すべきは家族食堂がケの部にあることであろう。そのほか洋館・和館の間の靴・スリッパーの使い分けとか、家長と家族・家族間の男女の差やしきたりなど、興味深い聞き取り調査を得ている。
中廊下式は、大正から昭和にかけて中流の代表的住宅として成立したとの見方が定説になっている。しかし玄関脇に洋間(応接間)を置き中廊下でケ・ハレを分けた典型的平面を見ると、岩崎邸の中庭が狭まり中廊下に変っただけで、構成的には同じであると言える。つまり基本的に中廊下式は明治の大邸宅を縮小した小型版であったと言えなくもない。
これに対し、居間式は明治以降の客室重視に反する居間・家族中心の住宅であり、新しい思想で作られたものと言える。近代化はハレの部分を増やして行く過程で客間が消え、リビング・家族の間ができ、戦後にはこの居間式住宅が中心となっていくのである。
併置式における「家族の間」、中廊下式は大邸宅の様式からの流れか、逆に庶民住宅から上がってきたものか、居間式成立の社会的条件、居間式と英・グレイトホールに見る中世大広間様式、オートルスの経歴とグラバー邸の設計、室名の成立(設計者・居住者)と実際の使用状況、民族特有建築と洋式を併置した住宅の有無と文化論からみた日本の併置式住宅、天皇家の純洋式邸宅とその使い方、玄関扉の内開きと外開き、など。