第72回
(話題)  大名屋敷跡地の住宅地開発−麻布霞町の場合−
(要旨)
麻布霞町地区(西麻布1・3丁目、六本木7丁目)は、旧棚倉藩阿部家の下屋敷にあたり、武家地公収の対象外となったことから、明治期に旧大名阿部家によって大規模な宅地整備と貸地・貸家経営が行われた。明治19年から21年にかけて集中的に宅地基盤の整備が行われているが、明治末期には、霞町地区の阿部家所有土地の63.9%にあたる29,840坪が貸地されている。個人の大規模土地所有者が多かった当時において、阿部家による開発・貸地経営は、東京の宅地形成に影響を与える存在であったと言える。
基盤整備としての道路は、大名屋敷地の頃から使われていた霞町官道・新門通・狼谷通・三年坂通などの骨格を基本として順次新設改造され、それにより形成された大街区を分割するように小路が開設された。併行して、貸地も19年〜21年に、計108口(平均187坪)が整備され86戸の家屋が立ち、21年には霞町官道の一部に官設下水が着工された。このようにして、「明治11年所有地書上」で宅地とされた地目は12,609坪のみであったが、21年の地種変換届では大部分の地目が畑から宅地へと変換され、その面積は39,469坪となっている。
貸地経営では(旧藩士には地代を割引)、道路に面する表坪、奥の裏坪で地代に格差を設け、平均貸地規模130坪余、霞町官道の東約1/3部分の両側は最も高く(明治29年)表坪2銭5厘、裏坪1銭5厘であった。阿部家による貸家経営は宅地開発以前から旧藩士に管理させていたらしく、また、借地人が自ら借地の上に家屋を建てて貸家経営を行うこともあった。
阿部家の地代家賃収入は、明治16年の247円(全収入の12.5%)が、開発後の23年には1,434円となり45.4%を占めるほどになる。貸地口数は、開発時の108口が、貸地面積の拡大もあって、明治末期には289口と3倍近くに増え、地代収入も月額で1,026円と増えたが、平均貸地は187坪から103坪と小さくなっている。また、坪当たり平均地代については、当初に比し明治末期には約6倍の3銭4厘に値上げされているものの、その間の地価は9.8〜10.6円(明治21年)から176.4〜212.6円(明治41年)と、18倍にもなっていることを併せ考える必要がある。
宅地経営は、明治期から大正期にわたり一部を除く殆どが阿部家所有のままで行われていたが、昭和6年には霞町地区の所有全土地及び貸家4棟について住友信託会社と「不動産管理契約(所有権・阿部家)」、13年には周辺部を除く20,710坪を同社と「動産信託契約(所有権・信託会社)」を結んで管理・運用を委託している。なお周辺部は14年に同社から「不動産売却案」が出され案に沿った形で分筆売買が進められた。一方、2〜12年にかけて、阿部家と三井信託会社で、現在の事業受託方式にあたる「不動産代理事務契約」などにより分譲地開発が行われ、六本木通沿い商店向き9区画や中流向宅地16区画など売却された。
戦後は、財産税法の施行に伴い24年に自邸の一部を残して大蔵省に物納するが、物納された土地は、主に借地人に払い下げられ、細分化されていった。
この経緯を都市計画的視点からみると、1.大名屋敷内の道路・貸地割りは以後の市街地形成においても基本的に引き継がれている。2.昭和戦前期の土地経営は大手信託会社が関与しそれが宅地規模を一定水準に保つこととなった。3.大蔵省に物納された土地は払い下げ時に細分化している。4.東京における大規模土地所有は計画的宅地経営には結び付かなかったと言われていたが、信託会社等の関与で多少なりとも計画的要素が含まれた、などの点が挙げられよう。
桑茶畑(面積)の実態と所有地書上、田畑以外の土地と借地権、開発以前の下屋敷地内の貸家数と実態、既存道路を基本とした理由(高低差と排水と当時の土木技術、居住者との関係など)、土地の極地的高低差と道路と宅地割りとの関係、大名屋敷内の道路の意味(長屋のあった屋敷内の道路を近代に置き換えて考える)、稲荷社など江戸的伝統的なものの在った位置と開発着手の順序、物納の土地と江戸以来在住者の地権、明治初期の家令による藩印乱用と土地開発など。