第71回
(話題) 江戸のおんな
(要旨)
「上方の女」と「江戸に住む女・江戸っ子の女房」を対照すると、「はんなりした」に対し、「小股の切れ上がった」がそのおのおのを代表する表現であろう。上方では京友禅など赤が多い華やかな柄を好むが、江戸は渋好みで、黒・利久茶などのモノトーン感覚で筋・格子・小紋が好まれ、言葉遣いも“おっとりした言葉”に対し、“男言葉”がよしとされ、黄柳の櫛・浴衣姿が最も“粋な姿”としてもてはやされた。
古川柳には江戸の女の姿が多く題材とされている。“日の本は女ならでは夜の明けぬ国”(女こそ天下国家の大黒柱、との女性賛歌だとする説)、“手を組んでそらせる娘出来るなり”(上方では、はしたない所作も、江戸ではかわいいとされた)、“この頃の娘の篇は犲(けもの)なり”(女篇でなく“けもの篇”の狼の意)などの句がある。こういった「江戸の女」に対し、男は女を意識して女を笑わせるべく話題を蓄え、口臭消しを使い、髭を抜き、シスターボーイのような色白な化粧をして女の関心を引こうとした。“傾城につめられ親父にはぶたれ”(高級女郎に抓られるサディスティックなサービスを喜び、帰っては親父にぶたれるという自主性の無さを示す)、“間男をするよと女房こわ異見”(夫婦間の決定権も多く妻に委ねられている)という古川柳もある。
このような「江戸の女」の姿形を浮世絵に探ってみると、江戸前期は上方の人形的美人が典型的であり、中期以降に男をてこずらせる江戸型が現れる。
明和2年(1765)、鈴木春信画く“笠森お仙”は、なで肩で柳腰、細い腕・足に細い首のぽっちりした口をもつ7頭身で、指も平べったくパスタのようで爪が無い。高度成長期で家長が君臨していた当時では、上方風の「かよわい少女」が好まれたのであろうか、ロリコン人形的「パスタ型美人」と言える。
20年後の天明4年(1784)の鳥居清長は、シェープアップされた顔にきりり濃い眉、長い手足の10頭身美女を描いている。高度成長期から物が豊かになったのを反映してか、健康優良美女へ変わり、指には爪がしっかりと描かれた「根菜型ヘルシー美人」となる。さらに時代が豊かになる10年後、寛政8年(1796)頃には喜多川歌麿の“ビードロを吹く女”が登場する。グラマラスな歌麿型美女は実在感のある8頭身で肉付きが良く凹凸があり、豊満な胸、太めの眉とつぶらな瞳・唇ぽっちゃり頬はふっくら・顎の丸い母親タイプで指には爪の甘皮までつけられている。そこには人間本来の肢体を肯定した肉体崇拝が感じられ、「肉類型美人」と言える。
歌麿型から30年後、文政7年(1824)頃の溪斎英泉になると、猪首・猫背で細面の尖った顎に小さく吊り上がった目と受け口をもつヒステリカルな容姿となり、平な胸・胴長・ずん胴・出腹の6頭身となる。手足も短く指は蝮指(まむしゆび)で深爪である。これはある意味では写実的ともアバンギャルド的美人とも言えるが、幕末・世紀末的世相を反映しているとも言えよう。そこにはコンプレックスを裏返しにした価値観の逆転が見え、退廃的「発酵型美人」と言えよう。
戦後日本の世相をなぞってきて世紀末の今日を見るとき、退廃的な「発酵型美人」がそろそろ現れそうな気がするが如何であろうか。
間男と過料(幕末で5両)、家庭における西欧の夫権と日本の男、春信の「撫でたい女」・歌麿の「抱きたい女」と英泉の「踏み付けられたい女」、英泉の絵と世相のフェティシズム、春信時代の浮世絵愛好者と清長時代の大衆化・刷りの技術、遊女と町娘のモデル登場の時期、美人の京写しから江戸型への転換時期(享保改革)、英泉以降の美人型の変遷、戦後日本の世相と男・女の風俗、男・女の西欧憧憬とアンチ西欧、など。