第68回
(話題) 都市のまつり
(要旨)
いわゆる「お祭り法案」が可決されたが、伝統・文化財保護派と観光・地域活性化派の間で議論が沸騰し、民俗学としても「祭りの理論付け」が求められているときともいえる。およそ日本の祭りは柳田民俗学にもとづけば、古代の祭りの再現・基本的なものの温存に成り立っている。それは深夜に籠もって山奥から神を“迎えたてまつり”神と人との清浄な交流の時をもつことであり、特殊な神事として残存するものの容易に見ることのできないものである。しかし中世以降、祭りは夏期に水際で行われ庶民の関心を集めるといったようなものに変化し、更に祇園祭に代表されるように、神を山車や神輿に乗せ街を巡行するハレの形となり、「こもる・まつる」から悪霊を「はらい・きよめる」都市の祭礼として風流化されていった。民俗学では前者の「祭り」に対し後者を「祭礼」として区別している。
この2つのモデルのほかに、現代社会は第3の祭りを生み出した。そして古い祭りだけに注視していたのでは民俗現象を残存した形でしか捕らえられないとの批判がおき、現代に対応する理論を立て直すことが急務とされた。民俗学は英仏では消滅寸前であり、米独ではよみがえっていると言われているが、ドイツ民俗学会での最近のイベントのテーマ「工業社会の中の民俗博物館の在り方」「身体と機械」「コンピューター社会の文盲」「異文化交流とマネージメント」「戦争と民俗学」などを見てもその傾向が窺える。ドイツでは、人口の都市集中・農村の機械化が進み古くからの民俗行事はなく、あるのは保存会中心の観光目的の行事のみである。したがって現在行われている民俗行事に古い民俗行事を探るのは無意味で、自治体のイベントとなっている地域の民俗行事が研究対象とならざるを得ず、現代の生活文化の学問に切り替えざるを得ないとして、理論化体系化された。フォークロアリズムがそれである。具体的には市民社会が発達すると故郷の観念が強化されるが、それが全国的マスメディアで組み立てられた偽の故郷(セカンド・ハンド・フォークロア)であるにも拘わらず、現代の庶民は必要としており、重要視されてくる。祭りの近代的意味に視点を当て、民俗学は「経験文化学」と装いを変えて研究が続けられているのである。
日本においても、竹下内閣の故郷創成運動もあり、地域活性化のために、現代の祭りがごく自然に取り上げられ大潮流となっている。祭りの古代の基本的タイプは、素朴で神と人との交流を示す文化であったことが解明され、中世の祭礼は神が人と共に遊ぶ神遊び、共に食事する直会が成立し、仮装や観光客など組み入れながら十分に意味をもつお祭りとして日本文化を語るに欠かせないものである。現代、過疎化した農山村では地域活性化のために、かつてあったであろう神祭りを再現し或いは新しく作り、町民祭りとか湊祭りと称して祭礼が行われる。そこではもはや神との交流は現れていない。これまで民俗学ではこの現象を一時的なものとしてきたが、現代が必要とし生み出した文化である。現代文化の一環として捕らえ直す必要があり、この疑似的な祭りになぜひかれるのかが重要となろう。そこには日本の宗教つまり森羅万象に神を見るアミニズムが根底にあるのではなかろうか。事実、自動車のお祓いなどはオリエントの宗教現象が日本に生きていると見る向きもあり、何らかの形でスピリチァルなものと関わっているであろう。民俗学での祭りのキーワードとして、まつる・忌む・籠もる・清め・祓などある。現在の祭りは自治体や企業がかかわり人為的であるが、潜在意識のけがれの累積の除去が目的でそれには相当のパワーが必要であり、現代の祭りがけがれを祓う力を発揮できるかどうかに、フォークロアリズムの存在理由がかかっていよう。その一例として、素盞雄神社御神輿大修復を機会に行われた船渡御のビデオを紹介する。区主導のもので本来の船渡御ではないが、現代の祭りの典型の一つである。
「お祭り法案」=「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律」の成立過程と日本人のアイデンティティ。第3の祭りには復活させた疑似的祭りと浅草カーニバルのような新発明のイベント祭りと両者含むのか。江戸名所図絵の三社祭り(異人風の仮装をしている)と疑似的祭り。風流と歌舞伎、風俗と民俗の違いとその接点。素盞雄(日本)と牛頭(インド)。千住大橋綱曳の図の川(入間川か)と綱の細さについて。異文化交流の実態。ネパールの神の流行とアミニズム。船渡御の神輿(明治期で宮神輿ではない)の御神体と黄金の槌。