第67回
(話題) ヴェネツィアの経済空間−交易・市場・職人−
(要旨)
ヴェネツィアはアドリア海の最奥のラグーナ(浅い内海)の上に形成された水の都であり、ローマ帝国崩壊後、中世のオリエントと西欧を結ぶ重要都市であった。その起源は5、6世紀頃侵入者から逃れて本土の都市民が潟の中の島々に避難したことに始まり、18世紀ナポレオンに占領されるまで1000年間も自由と独立を貫く共和体制を堅持して独特の高い都市文化を築き、その栄光と繁栄と美しさは「アドリア海の女王」と呼ばれた。
町は本来117の小さな島がモザイク状に集まって成立している。その一つ一つが教会を中心とする教区にあたり、同時に行政上のコントラーダ(地区)でもあり、カンポと呼ばれる広場をもち、住民の自立的な地区完結型の生活共同体となっていた。つまり中世ヴェネツィアは教区を中心とする多核的な都市構造をもち、同時に全体として連続的で有機的な一つの都市国家に統合されていたのである。かつ運河やカンポに面して貴族の邸宅が並び庶民は裏路地の長屋に住む不平等はあったが、貴族(5%)、官僚・市民(5%)、庶民(90%)の住分けがなく各地区に諸階級が混在していた。カンポ周辺には生活に必要な施設が並び、雨水の貯水槽が設置された。
都市建設はリアルト地区の島々から始まるが、都市の地理的な中心に位置するこの発祥の原点は、大市場をもつ商業・経済の中心である。ラグーナの中の自然の流れを生かしながらカナル・グランデ(大運河)が巧みに整備されて都市全体を貫く幹線水路となり、両岸を結ぶ唯一の橋リアルト橋には様々な方向から人々が集まり、まさに東西を結ぶ国際貿易と世界の金融のセンターであった。都市の中心を大規模な市場が占めるのはヨーロッパでは類例がない。この界隈は住宅はなく金銀細工・絹・毛皮その他様々な商品を扱う店舗がぎっしり並び、柱廊はギリシャ・ーマの系譜を引くが、賑やかな雰囲気はイスラム都市のバザールに似ており、市場の裏手には娼婦の家も造られた。またリアルト市場の大運河沿いには商人の宿泊・取引などの活動の拠点として、商人貴族個人や共和国所有管理の外国人用(ドイツやペルシャ等)の商館(フォンダコ)が数多く並び、舞台装置のような華やかな空間を演出していた。それは江戸時代の日本橋を連想させ、また明治経済界の指導者・渋沢栄一が日本橋川の水辺に建てた邸宅はこの光景を範としたのではなかっただろうか。外国人は、ユダヤ人が都市周辺の鋳物工場(ゲットー)跡地に居住した例があるものの、比較的都心部・表舞台である港湾地区に自然な形で溶け込んで住んでいた。彼らの活動によって経済や社会が活性化しただけでなく、異文化の混じり合う刺激的な国際都市の雰囲気が生まれたのである。ヴェネツィアのもう一つの顔サン・マルコ地区は政治・宗教・文化の中心であり、儀礼や祭礼・観劇・見本市等のパフォーマンス空間であるが、ヴェネツィア人にとってはリアルトこそが中心なのである。更にヴェネツィアは聖地エルサレム巡礼の中継基地であり、東方の海へ通じる窓口でもあった。
国際的商業・交易だけでなく、古くから職人による手工業が経済の重要な役割をもった。13〜14世紀に業種毎の相互扶助を目的とするスクオラ(職能組合)が形成され、それぞれ守護聖人をかかげ、不正な競争や粗悪な仕事などを取り締まりマエストロの称号を与え、慈善・救済事業など社会の福祉的役割も果すようになっていった。現在でも路地や広場に職人の業種名のついたものが多く、工房跡や建物入口の上、祭壇などに組合のシンボル・マークの彫刻やレリーフが残されている。また組合は国家の行事や祝祭にそれぞれの旗を掲げ参加することが義務づけられた。それは組合員の名誉であり、市民階級、庶民階級はこれら福祉や行事に参画することで、共和国への帰属意識や誇りをもつことができたのであろう。やがて、スクオラが都市組織で重要な役を果たすようになり、中央集権的色彩を強めて行くが、地区の個性は失われることなく、工房での生産活動は活気を持続し、様々な祝祭・見世物なども加えて17〜18世紀には都市全体が祝祭空間の様相を呈したのである。
道路計画などへの為政者の関与とコントラーダ。ヴェネツィアの現在のイメージの確立時期。現在の経済基盤と変化。西欧と日本の観光とそのガイドブックの概念の違い。ヴェネツィアの墓地。石・木など建材の入手方法。ヴェネツィアの地質と地震と建築構造など。