第66回
(話題)  三越百貨店が演出した文化生活
(要旨)
江戸期以来の大店の呉服店が近代的百貨店に脱皮し始めたのは明治の後半であるが、それは欧米の百貨店とは大きく異なる発展の経過をたどった。欧米の百貨店は客の9割9分がショッピングを目的とした婦人であり施設もそれに対応していたとされていたのに対し日本のそれは、意識的に「一日の行楽として家族連れで訪れる楽しみの場」として形作られていった。 
その先駆的役割を果たした三越は、店内に食堂・屋上庭園・催し物場などの施設をいちはやく組み入れ、頻繁に絵画展・音楽会・児童博覧会などの催し物を開催しているが、それはみな積極的に「家族連れ」の来店を促進するものであった。食堂は明治末期に設けられたが、「新中間層」の憧れの的であった日比谷公園・松本楼の洋食を念頭に描いて、大正末期には、900人を収容する規模となり、また昭和初期には「お子様メニウ」まで出現する。屋上庭園も同じ年に造られ、大正初期には娯楽施設の一つとしてかなり充実した庭園と眺望を楽しめる場をかたちづくる。
こうして大正末期の三越は、客寄せに行う催し物・陳列会・売り出しなどで「年中博覧会の観あり」と報じられるにいたるが、それは欧米百貨店のバーゲンセールと異なり、絵画・工芸などの美術展覧会、歴史・華道・写真・生活改善などの展覧会、各地名産の紹介の催し物など、間接的にはともかく直接的には商品の販売を目的としない催し物が多いという特徴をもつものであった。
こうした催事場は、増改築の度に充実され娯楽的性格を高めていくが(昭和初年本格的劇場「三越ホール」の設置)、そこに作り出された「家族連れで訪れる百貨店」の家族とは、生活水準では中よりやや高い、或いはその生活に憧れをもっていた人々であり新しい時代にふさわしい「新家庭」のイメージであった。それは当時の催し物の中で最も力を入れた「児童博覧会」の意図の中にもうかがわれ、更に新しい製品を含めて古今東西の衣服・調度・娯楽器具などを集め「新家庭」に清新の気を吹き込むとあり大成功をおさめた。(「児童用品研究会」の発足や「子たから」の販売)
この時期こうして百貨店の中で演出された生活文化は、やがて地下鉄とネットワークを組み、山の手文化につながり、日本の近代都市文化の創造に大きな役割を果たしたものであったと見ることができよう。
アメリカの百貨店の実際と日本の百貨店の食料品売り場、日本と欧米の子供の位置付けの相違、児童博覧会と時代背景(ナショナリズムと百貨店)、儒教思想の復活と新家庭の婦人子供、百貨店の“帳場”と学卒店員、洋服と化粧品の売り場、百貨店の品位とモボ、日本の経営者(文化人としての教育意識)と欧米(個性的で競い合いの商人)の違い、百貨店の上層指向とご用達・ステイタス、など。