第62回
(話題)  近代演劇人による伝統の発見
(要旨)
新劇界草創期に主導的役割をはたした2人の演劇人・坪内逍遥と小山内薫が、それぞれ江戸歌舞伎の伝統といえる「残酷美」をいかに見、いかに評価したか。
安政6年(1859)生まれで「早稲田文学」に據った逍遥は、幼少から伝統歌舞伎の過激な残酷・卑猥シーンなどに親しんできたが、このような残忍な性向は日本人に固有のものかと自問し、英・西班牙劇と比較した「東西の煽情的悲劇」を著している。同著や「シェイクスピヤ・アットランダム」などで彼は、規模の雄大さと作意の深刻味において新演劇の模範とする沙翁劇(シェクスピアげき)においても、残酷を極める場面ではーそれは皆舞台裏の事件となっているものの“日本の悪人”より徹底した“悪性格”であり、伝統歌舞伎と同じく「血の悲劇」を楽しむものをもっていると記している。つまり彼は、自分を含め日本人は“変態性欲の嫌疑”の負目を背負う要はなく、伝統の残酷劇を保持しているからこそ沙翁劇が理解でき、かつ、日本人によってこそ独自の沙翁研究がされうるとしているのである。
逍遥より20年余の後の明治14(1881)年に生まれた小山内薫になると、その劇評などから「歌舞伎の残酷美」が変容していることが読み取れる。薫は「三田文学」に據り近代の生活に根を置いた国民劇を目指して古劇・世話狂言の研究を行うが、独の戯曲家で俳優でもあったヴェデキントの作品から鶴屋南北の芸術を再発見し、その“悪と残酷と怪奇とを愛そうと思う”と述べている。更に彼が万朝報(まんちょうほう)に連載した小説“お岩”は米人ド・ベンヌイルの四谷怪談(英文)を翻訳したもので、拷問・磔から死に至る残酷場面の描写に感心したのが執筆の動機と述懐している。当時すでに江戸歌舞伎の残酷美は西洋からアプローチしないと解らぬほど希薄になっていたのであろう。
日本と西洋のリアリズムの違い、怖さの魅力・遊びの精神と生死の問題・宗教、心理的残忍さと鋸引(のこぎりびき)刑の残酷さ、永井荷風の位置、江戸と明治の小屋・舞台装置の違いと残酷印象、などから独語教科書で出会ったヴェデキントや「息子」を演じた参会者経験談も加えて賑やかに交わされた。