第60回
(話題) 芝居町と観客−都市文化の底流をさぐる−
(要旨)
江戸の芝居町は寛永元年、中橋(八重洲通り)の勘三郎座に始まるとされている。城中で共演した彦作座もあったので、二座が並立していたと考えられ、湯屋・茶屋・軽業などとともに繁華歓楽街を形成していた。元禄時代に官許は中村・市村・森田の江戸三座となったが、官許大芝居のほかに小芝居・宮地芝居が多く存在した。
一日芝居が始まった寛文のころから、芝居茶屋は食事・接待など重要な役目を担うようになってくるが、「芝居乗合話」や「信鴻(しんこう)日記」などから一日の実態を調べてみると、席の確保・帳元の対応の様子・芝居鑑賞の入場など不合理かつルーズであったことがわかる。しかしそれ自体に情緒が感じられ、芝居茶屋では大名も町人も同じで、金は物を言わず「粋(いき)」が大切にされていたことがわかる。更に「向こう桟敷」は明和安永期の平面図を見ると、役者の顔が見えないことがわかる。観客は「舞台が見えなくても見ている」のであり、芝居に行くことは自分も見せることであり、実際に幕ごとに衣装を替えお色直しをして芝居の席にいること自体に意味があった。
明治時代になると、オペラなどから影響を受けて芝居の内容も小屋も茶屋も変えていこうとする動きがあった。九代目団十郎が事実に基づく芝居をよしとし、文明開化の波に合わせた芝居を始めるが、それは近代の芝居を占う動きでもあったのである。
中橋の芝居町の位置。幕開けまでの観客の居場所。席取りの状況。花道の下に奈落(ならく)があったか。小屋の柱の位置など。