第143回
(話題) 築地・横浜の外国人コミュニティ
(要旨)
外国人コミュニティとして、居留地を考えるにあたって、安政5年(1858)6月に調印された日米修好通商条約から話が始まった。
この条約によって、箱館・長崎・神奈川・兵庫・新潟を開港し、大坂・江戸を開市することが決められた。条約を結んだハリスは、大坂は日本の商業の中心地であること、大名(貴族)は毎年江戸に参勤しているので江戸を開けば全国の大名と貿易が可能であることなど、事前に日本国内の情報を入手して交渉に望んでいる。幕府は、江戸の開港にも消極的だったが、大坂の開港にはさらに強く反対していた。天皇のいる京都に近いというだけでなく、開港によって大坂が繁栄し、江戸が衰微することを憂慮したためである。しかし結局、ハリスに両都の開市を押し切られた幕府は、江戸近辺の神奈川(横浜)を先に開港させて、大坂・兵庫に対する橋頭堡とした。
東京(江戸)は、度重なる延期ののち、明治元年(1868)11月に開市された。現在の中央区明石町に築地居留地が開設された。これは横浜に遅れること約10年になる。そのころ、すでに横浜は居留地としてめざましい発展を遂げつつあった。それに比べて築地居留地は、明治初年中にその役所はほとんど解体され、税関も横浜の出張所扱いになった。その原因は、居留地ではなく開地場(貿易品を直接持ち込めない)という制度上の制約があったこと、そのほかにも、築地ホテルの火災、短期の借地には借地代が高い等によるとされた。いずれにせよ、ハリスの構想した江戸居留地とは、かなり様相が異なるものであったことは間違いない。
両居住地の発展と衰退が明確にされた。