第130回
(話題) 目白文化村とその変貌
(要旨)
目白文化村は大正11年(1922)6月以降、東京府下の落合村に誕生する。当時は代表的な郊外住宅地である。その場所は、現在の東京都新宿区にある中落合2丁目の一部、3丁目と4丁目の大半、それに中井2丁目にわずかにかかる一帯の区域である。
目白文化村を開発したのは、不動産会社の箱根土地(現在の国土開発)である。その統率者は西部グループ生みの親である堤康次郎で、同氏は横紙破りの強引な商法と同時に、時代を先取りするユニークな発想の持ち主として知られている。当初、落合村の分譲地を「目白不動園」と箱根土地は名づけるが、「文化」という大正時代の産物にあやかり、「目白文化村」と名前を付けている。これは、堤の発案ではない。
目白文化村は東京という巨大都市の変遷と膨張の影響を大きく受け、いちじるしい変貌を遂げる。開発当時に周辺にみられた畑や雑木林といった田園風景は宅地化、都市化で喪失した。第2次大戦の空襲で大半が灰じんに帰した。戦後は環状6号線(山手通り)と放射7号線(新目白通り)という都市計画幹線街路によって縦横に分断された。
昭和60年(1985)に目白文化村研究会(主査:八木澤壮一)が発足する。一般財団法人住総研の助成をうけて「目白文化村に関する総合的研究」(1988、1989年)としてまとめられ、その研究成果をもとに『目白文化村』(1991年)も出版されている。
目白文化村についての変貌の報告と、いずれは消滅の運命にあるこの目白文化村を調査し記録に留めようとする活動も紹介された。